ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 農林水産部 > 耕地課 > 児島湾干拓の歴史

本文

児島湾干拓の歴史

印刷ページ表示 ページ番号:0528904 2023年11月29日更新耕地課

児島湾干拓について

 古来、瀬戸内海に浮かぶ児島と本土との間には、20余りの島々が点在する「吉備の穴海」と呼ばれる浅い海が広がっていました。

 吉井川、旭川、高梁川の三大河川がこの海に流入しており、その上流の中国山地では備前長船などの刀工に必要な、たたら製鉄の砂鉄採取が長く続けられてきたことから、大量の土砂が海に流れ込み、それが堆積して干潟が発達していたため、この地では古代から干拓が続けられてきました。

 岡山平野の耕地約25,000haのうち、約20,000haが干拓によって生み出されています。
児島湾干拓の歴史
児島湾干拓の概要

戦国~明治

 戦国時代の宇喜多家の干拓、江戸時代初期の備中松山藩水谷家の干拓により、高梁川左岸が児島と陸続きとなり、児島湾が誕生しました。 
 また、備前岡山藩池田家により幸島新田や沖新田をはじめとする大規模な干拓が行われ、江戸時代だけで約7,000haの新田が生み出されています。
戦国時代の海面古図
明治30年頃の児島湾

明治~大正

 明治に入り、政府はオランダ人技師ムルデルに干拓計画の策定を依頼し、湾内約7,000haのうち約5,500haを8工区に分割し、干拓する予定で進められました。
 その後、児島湾干拓は大阪の豪商 藤田伝三郎に委ねられ、明治32年に着工し、難工事の末、大正2年に一区と二区の干拓が完成しました。
明治~大正

大正~昭和

 昭和に入って着工した三五区が昭和25年に完成する一方、六区七区は農林省に引継がれ、昭和30年に六区が完成しました。
 また、干拓の進展に伴う農業用水不足が顕著化したため、昭和25年から児島湾に延長1,558mの締切堤防を設け、児島湖を淡水化し農業用水を確保するとともに、水位を調節して、塩害や高潮から背後の干拓地を保護することとなりました。
大正~昭和

現在

 こうして、昭和34年には面積約1,088haの児島湖が誕生し、その4年後の昭和38年に七区干拓が完成し、児島湾干拓事業は完了しました。
現在の児島湾干拓地

潮止め堤防工事のようす

 コンクリートもない時代で、粗朶や捨石、漆喰などで固めるという江戸時代そのままの工法でした。
 児島湾は底無しのような泥海で、堤防ができあがったかと思うとその重みで全て沈んでしまうといった難工事でした。
堤防工事の様子1
堤防工事の様子2

児島湾干拓資料室

児島湾干拓の歴史について、もっと詳しく知りたい方は、是非「児島湾干拓資料室」を訪れてみてください。

「児島湾干拓資料室」
 【 所 在 地 】  岡山市南区郡 2980-304
          児島湾中央管理事務所1階
 【 開 館 日 】  月曜日~金曜日(祝日は除く)
 【 開館時間 】  9時00分~17時00分
 【 入 館 料 】   無 料
 【 問合せ先 】 (Tel)086-267-3002