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おかやまゆかりの江戸城外堀石垣のある小石川後楽園
おかやまゆかりの江戸城外堀石垣のある小石川後楽園
後楽園と称されるものには、東京都文京区にある小石川後楽園と岡山市にある岡山後楽園の二つがあり、ともに、江戸時代の典型的な大名の回遊式庭園である。その名称はともに中国宋代の范文正「岳陽楼記」の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」(先憂後楽)からつけられた。
水戸藩初代の徳川頼房は、徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に、一六二九年(寛永六年)小石川後楽園の築造を始めた。二代光圀もこれを継承し、中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて、中国趣味を付け加えた。
中央に池があり、四方に築山を配して、各地の名所にちなむ堂社や亭を建てたが、その後、一七〇二年(元禄十五年)には将軍綱吉の生母桂昌院の来園で歩行障害となる奇岩大石を取り除いたため、景趣は著しく減じ、翌年の江戸大地震でも損傷を被った。明治維新で官収され、兵部省造兵司のちの東京砲兵工廠となり陸軍省が所管、内外の招宴場に用いられたが、関東大震災で建物の大部分が焼失した。一九三六年(昭和十一年)東京府の管理となり、一九四五年には戦災を被ったが、逐次整備され、一九五二年特別史跡および特別名勝に指定された。面積は約7ヘクタール。
その小石川後楽園の外壁(平成十年に改修された。153メートル)には、諸大名が競って築いた寛永十三年(一六三六年) の江戸城外堀普請(丸の内一丁目鍛冶橋付近)で、当時松平新太郎(池田光政)岡山藩主を組頭とする石垣方四組に属していた備中成羽藩主山崎甲斐守(山崎家治)の丁場の石垣であり、江戸城外堀発掘調査の際に出土した石垣が使われている。石垣の石材は伊豆半島もしくは真鶴半島から運ばれたもののようであるが、その石垣には備中藩山崎家の刻印が掘られており、当時が偲ばれる。
水戸藩初代の徳川頼房は、徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に、一六二九年(寛永六年)小石川後楽園の築造を始めた。二代光圀もこれを継承し、中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて、中国趣味を付け加えた。
中央に池があり、四方に築山を配して、各地の名所にちなむ堂社や亭を建てたが、その後、一七〇二年(元禄十五年)には将軍綱吉の生母桂昌院の来園で歩行障害となる奇岩大石を取り除いたため、景趣は著しく減じ、翌年の江戸大地震でも損傷を被った。明治維新で官収され、兵部省造兵司のちの東京砲兵工廠となり陸軍省が所管、内外の招宴場に用いられたが、関東大震災で建物の大部分が焼失した。一九三六年(昭和十一年)東京府の管理となり、一九四五年には戦災を被ったが、逐次整備され、一九五二年特別史跡および特別名勝に指定された。面積は約7ヘクタール。
その小石川後楽園の外壁(平成十年に改修された。153メートル)には、諸大名が競って築いた寛永十三年(一六三六年) の江戸城外堀普請(丸の内一丁目鍛冶橋付近)で、当時松平新太郎(池田光政)岡山藩主を組頭とする石垣方四組に属していた備中成羽藩主山崎甲斐守(山崎家治)の丁場の石垣であり、江戸城外堀発掘調査の際に出土した石垣が使われている。石垣の石材は伊豆半島もしくは真鶴半島から運ばれたもののようであるが、その石垣には備中藩山崎家の刻印が掘られており、当時が偲ばれる。