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旧美作津山藩の槍持、芦田勘助の墓(青松寺)
旧美作津山藩の槍持、芦田勘助の墓(青松寺)
文明8年(1476)太田道灌が開基し、慶長5年(1600)現在地(港区愛宕2丁目に移った青松寺の墓地は愛宕山に続く高台にあり、入り口近くに人の形に作られて槍持勘助の墓がある。槍持勘助(本名芦田義勝)は、美作津山藩(岡山県)主松平越後守宣富の足軽で、当時越後守の槍はとても長くて重く、倒せば打ち首になるという大変な代物。これを持つ苦労を後に残すまいと、義きょう心の強い勘助は槍の柄の下方を切り、自ら切腹して果てた。元禄14年9月のことであったという。松平家では再び切られるのを恐れて、槍の柄に鉄の筋金を入れたという。勘助の墓は奴地蔵とも呼ばれ、下の病によく効くと願をかける人が増え、全治した人は竹筒にお酒を入れてお礼をしたという。近くには都旧跡に指定されている江戸時代の儒者、井上金峨の墓や法輪大観音像、竹林、湧水などがある。