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人見絹枝顕彰像
人見絹枝顕彰像(世田谷区北烏山、日本女子体育大学構内)
数々の女性アスリートを輩出する日本女子体育大学の構内、烏山陸上競技場のすぐ側に、岡山が生んだ日本女性初のオリンピックメダリスト、人見絹枝の銅像がある。
没後70年に当たる平成13年8月に、同大学陸上競技部OG会により、建立されたものである。
人見絹枝は、明治40年1月、福浜村に生まれ、岡山県高等女学校(現・岡山操山高校)を経て、大正13年、二階堂体操塾(後の日本女子体育大学)に在学。卒業後は大阪毎日新聞社に勤務、昭和3年、21歳のときに第9回オリンピック(アムステルダム大会)に出場、女子800m走でドイツのラトケ選手と熾烈な優勝争いを演じ、銀メダルを獲得した。驚くべきは、800m走が、彼女にとって公式戦初の経験であったことである。得意としていた100m走で準決勝敗退と振るわなかったことを受けて、決死の覚悟で初のレースに臨み、ゴール後に意識を失うほどの死力を尽くしてメダルを勝ち取ったのであった。
この前後を通じ、彼女は多くの国際大会での優勝や、100m走、200m走、走り幅跳びなどの種目で世界記録更新を成し遂げた。また、その傍らで、新聞記者としての記事執筆や全国から招かれての講演、後進の育成など、多方面にわたる活躍を精力的に行っていたが、再三の海外遠征や講演、練習などで過労が重なり、昭和6年8月、肺炎のため24歳の短い生涯を閉じた。
時は流れ、平成4年、バルセロナオリンピック女子マラソンにおいて、岡山出身の有森裕子選手が銀メダルを獲得。これが日本女子陸上界では人見以来のメダル獲得となった。有森選手は続くアトランタ五輪でも銅メダル、そしてシドニー五輪では山口衛里、アテネ五輪では坂本直子と、天満屋女子陸上チームの選手が連続入賞し、今年(2008年)の北京五輪には同チームから中村友梨香選手が出場と、人見の系譜を継ぐランナーたちが続々と岡山から生まれている。こうした女性ランナー達の躍進の舞台となっているのが、岡山市で毎年12月に開催される、山陽女子ロードレース大会であり、この大会10キロの部の優勝者には、彼女をかたどった人見絹枝杯が優勝杯として授与されている。発着点となる岡山市津島の桃太郎スタジアム前にもまた、彼女の銅像をみることができる。
没後70年に当たる平成13年8月に、同大学陸上競技部OG会により、建立されたものである。
人見絹枝は、明治40年1月、福浜村に生まれ、岡山県高等女学校(現・岡山操山高校)を経て、大正13年、二階堂体操塾(後の日本女子体育大学)に在学。卒業後は大阪毎日新聞社に勤務、昭和3年、21歳のときに第9回オリンピック(アムステルダム大会)に出場、女子800m走でドイツのラトケ選手と熾烈な優勝争いを演じ、銀メダルを獲得した。驚くべきは、800m走が、彼女にとって公式戦初の経験であったことである。得意としていた100m走で準決勝敗退と振るわなかったことを受けて、決死の覚悟で初のレースに臨み、ゴール後に意識を失うほどの死力を尽くしてメダルを勝ち取ったのであった。
この前後を通じ、彼女は多くの国際大会での優勝や、100m走、200m走、走り幅跳びなどの種目で世界記録更新を成し遂げた。また、その傍らで、新聞記者としての記事執筆や全国から招かれての講演、後進の育成など、多方面にわたる活躍を精力的に行っていたが、再三の海外遠征や講演、練習などで過労が重なり、昭和6年8月、肺炎のため24歳の短い生涯を閉じた。
時は流れ、平成4年、バルセロナオリンピック女子マラソンにおいて、岡山出身の有森裕子選手が銀メダルを獲得。これが日本女子陸上界では人見以来のメダル獲得となった。有森選手は続くアトランタ五輪でも銅メダル、そしてシドニー五輪では山口衛里、アテネ五輪では坂本直子と、天満屋女子陸上チームの選手が連続入賞し、今年(2008年)の北京五輪には同チームから中村友梨香選手が出場と、人見の系譜を継ぐランナーたちが続々と岡山から生まれている。こうした女性ランナー達の躍進の舞台となっているのが、岡山市で毎年12月に開催される、山陽女子ロードレース大会であり、この大会10キロの部の優勝者には、彼女をかたどった人見絹枝杯が優勝杯として授与されている。発着点となる岡山市津島の桃太郎スタジアム前にもまた、彼女の銅像をみることができる。