本文
降り積もる火山灰と石器
文/岡山県教育庁文化課 平井 勝
二万一千年前のことである。蒜山原に居住していた旧石器人は、言い知れぬ不安を抱きながら空を見上げていた。
昼だというのに空は薄暗く、やがて雨でもなく雪でもない、得体の知れないものが降りはじめた。
土だ、土が降ってきた。
独り言のようにつぶやいた長老さえ、かつて経験したことのない事態に、ただ身を震わせていただけに違いない。
蒜山原に限らず、中国山地には火山灰が薄く堆積(たいせき)している。そのほとんどは大山に由来するもので、堆積の様子をよく観察すると、色や土質の異なる火山灰が何層にも重なりあっていることから、たびたび噴火していたことがうかがわれる。
旧石器時代(先土器時代ともいう)には、列島各地で大山のような火山が活発に噴火していた。しかし、その影響はさほど広い範囲に及ぶことはなかった。
これに対し、鹿児島県の姶良(あいら)カルデラの噴火は、ほかの噴火とは比べ様もなく、日本史上最大級の規模であった。まさに二万一千年前の大事件である。この時、姶良カルデラの噴火によって空高く吹き上がった噴煙と火山灰は、上空の偏西風に乗ってほぼ列島全域に運ばれている。
岡山県古代吉備文化財センターが発掘調査を行った蒜山原の中山西遺跡の地層を見ると、地表から一.九メートル下に黄色をした姶良火山灰の層が認められ、その直下から石の道具が発見された。
中山西遺跡と同時代の石器(神郷町野原遺跡出土)
川上村中山西遺跡全景
石の道具を覆う姶良火山灰層の厚さは約二十センチメートルであるが、これは土庄で圧縮された結果であり、降灰した当時はこの二倍以上は降り積もっていたと思われる。
中山西遺跡の土層断面
このような大量の火山灰の降灰は、自然の生態系の破壊や気象の著しい変動を引き起こした。さらに、降水などによる火山灰の流出、河川を通じての大量の灰の流下など、さまざまな二次災害を引き起こした。
おそらく中山西遺跡の旧石器人を取り巻く環境も、急激に悪化したと思われる。狩猟の対象になっていた動物や、採集の対象であった植物は激減し、空を舞う灰が太陽をさえぎるため気温も下がった。
長老は移動を決断した。身支度を整えた人びとは火山灰の降りしきる中を旅立った。彼らがどこに行ったかはわからない。
ただ、彼らはどこまで行っても火山灰から逃れることが出来なかったことは確かである。
ところで、旧石器人を震撼(しんかん)させた姶良カルデラの噴火は、皮肉にも生活の跡をそのまま厚い火山灰で保護する結果になり、旧石器時代の研究に多くの成果をもたらした。
蒜山原には中山西遺跡以外にも、同じく古代吉備文化財センターが調査した下郷原田代(しもごうはらたしろ)遺跡や城山(しろやま)東遺跡、さらに岡山理科大学が調査した戸谷(とだに)遺跡群など、旧石器銀座といわれるほど姶良火山灰の直下から石器が発見される遺跡が集中する。そこでは色々な石材を用いて、巧みに石の道具を製作している。
では、彼らの道具箱を少しのぞいてみよう。最も多いのはナイフ形石器である。ついで削器(さっき)がよく見られる。そのほか掻器(そうき)や彫器(ちょうき)、そして石斧などがある。意外に道具箱の中は豊富だ。
中山西遺跡の石器出土状況
※グラフおかやま1997年4月号より転載