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稲作ことはじめ
文/岡山県古代吉備文化財センター 平井 泰男
四年前の夏は記録的な「冷夏」であった。そのため国内では米不足となり、店頭には「外国米」が並んだ。
また間もなくして、政府は長年の減反政策に加えて、米の一定量の輪入や市場自由化の方針を決定した。『稲作の将来はどうなるのか』。現代日本の抱える重要課題の一つである。
同じ頃、大昔の米問題も大きく揺れた。
一九九一年冬、岡山県立大学の建設現場で発掘調査が行われていた総社市南満手遺跡のある調査区では、調査も終盤にかかっていた。弥生時代の柱穴や溝の調査を終え、その下層の掘り下げを行っていたところ、数片の土器が出土した。
その日は午後から雨。現場作業は中止となり、プレハブ事務所に戻った調査員は、土器の年代が気になり、水洗いを始めた。
間もなく、一片の土器の内面に籾の痕らしいくぼみがあるのに気づいた。しかし、如何せん長さ7mm、深さ2mmほどの小さなくぼみで、これが籾の痕かどうか判断はできなかった。
しかし形状からは籾の痕の可能性はある。土器の時期は縄文時代後期後葉らしい。そうだとすれば日本で最古の発見となる。岡山県古代吉備文化財センターでは農学の専門家による鑑定を決断した。
鑑定結果は「籾の痕に間違いない」というものであった。一九九二年三月、報道機関への発表。一粒の籾の痕が考古学界に投げかけた波紋は大きかった。
無理もない。それまでの通説では、約2500年前に稲作は朝鮮半島南部から北九州の玄界灘周辺に伝わり、その後徐々に西日本から東日本にひろがっていったと考えられていた。ところがそれより約500年前に、しかも岡山の地で籾がみつかったのである。
南溝手遺跡 縄文時代後期の籾のついた土器
籾痕のついた土器片のアップ
しかしながら、籾が存在していたことは認めるが、他地域から持ち込まれた可能性もあり、岡山で栽培されていたかどうかは証明不十分であるとの慎重なコメントもだされた。
しかしイネが栽培されていたことも約一年後には明らかになった。その決め手となったのは籾の痕のついた土器の土の中から発見されたプラント・オパールである。
南溝手遺跡 縄文時代後期のイネのプラント・オパール
プラント・オパールとは植物の葉の細胞に形成された50ミクロンほどの小さな珪酸体(ガラス質)のことで、特にイネ科植物では植物の種類ごとに異なる形状を示しているため、たとえばイネのものを識別することが可能になっている。
土器の土の中からイネのプラント・オパールが発見されたということは、土器の生地となった粘土中にイネの葉が含まれていたということになる。
籾ならば他地域から持ち込まれた可能性も考えられるが、葉をわざわざ持ち込むことは考えにくい。遺跡周辺で土器づくりは行われており、イネが栽培されていたことはほば間違いない。
籾の痕とプラント・オパールの発見によって約3000年前に岡山の地でイネが栽培されていたことがつきとめられたのである。
ところが驚いたことに、この時の分析結果では、参考のために提供していた、さらに古い約3500年前の縄文時代後期中葉の土器片からもイネのプラント・オパールが発見されていたのである。
しかも土器と一緒に出土した石器の中には、栽培に用いたとも考えられる土掘り具(打製石鍬)や収穫具(打製石鎌や石包丁)が含まれていた。わずか1-2年の間に、日本の稲作の歴史は千年も遡ることになったのである。
南溝手遺跡 縄文時代後期中葉の石器
それから約五年。現在では縄文時代中期には米作りが始まっていたのではないかとも考えられるようになっている。『日本では、いつから、どのようにして稲作は始まったのか』。考古学、農学、遺伝学など各方面からの追求は今も続いている。
※グラフおかやま1997年8月号より転載