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意外に多い土器の移動

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県古代吉備文化財センター 島崎 東

 

 山陽自動車道の全線開通、中国横断自動車道と四国自動車道との結節など、いまや道路網および交通手段の発達は、人と物の移動をより容易にした。
 では、いまほど充分な交通手段を持たなかった時代、例えば岡山県がかつて吉備と呼ばれていた原始・古代の移動とはどのようなものであったのか。現在に生きる私たちにとって、その当時のことを知ることは至難のわざといえる。

 しかし、これを考える一つのヒントともいうべき発見が折しも山陽自動車道岡山ジャンクション建設地となった津寺遺跡、および周辺地域での発掘調査によってなされている。

吉備の土器
吉備の土器

 古墳時代初頭(約千七百年前)の竪穴住居などから出土した数多くの土器の中にあって、一見吉備では見かけない形をした土器の存在に気づくことがある。集落遺跡から出土する土器の多くは、日常の生活で実際に使用されていたものがほとんどである。
 当時の土器は、生活する地域単位で製作されていたようで、製作地域が異なれば形の異なる土器となり、そこで使用され、廃棄されるのである。吉備には吉備の、山陰には山陰の「顔」をした土器がある由縁である。

山陰の土器
山陰の土器

 近・現代の陶磁器類が全国を流通するのは、商品経済の発達があったからであって、古墳時代の初めのように未発連な段階では通常土器の流通など考えられないことである。ましてやその土器が低温で焼かれた、決して優品といえない土師器においてはなおさらであろう。
 そうした土器がなぜ逢か遠く生産の地を離れた吉備の地において出土するのであろうか。それも同時期に複数の地域の土器が、しかも中には山陰のように 一括器種を揃えた地域もある。

北陸の土器
北陸の土器

 津寺遺跡からは東海地方の台付甕、北陸の甕・器台、畿内の壺・甕・高杯、讃岐の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・高杯・鼓形器台・台付椀などが確認される。
 また、津寺遺跡から約1km南にある足守川加茂A・B遺跡からは東海地方の台付甕、畿内の壺・甕・高杯、山陰の壺・甕・鼓形器台、西部瀬戸内の壺・甕、讃岐の壺・甕、九州の壺・甕・高杯などが確認されている。この他にも高塚遺跡、立田遺跡、政所遺跡、上東遺跡など、挙げればきりがない。

東海の土器
東海の土器

 一般に土器には、壺は貯蔵、甕は煮沸などと器種によって使用方法の違いがある、と説明される。出土した土器のなかには明らかに煮炊きに使用されたことが解る外面に煤もしくは吹きこぼれを残したままの甕も多く見ることができる。
 もちろん他地域から吉備に搬入された甕にも同様に確認されるのである。これは、土器の生産と使用について考えた場合、単に土器だけが運ばれてきたのではなく、当然人の移動に伴って持ち運ばれたと考えるのが自然と考える。

 即ち、古墳時代初頭の吉備の地で確認された他地域の土器の存在から、既にそこには全国の各地からの人の移動と一定期間の居住が想定されるのである。
 もっともその逆もあって、吉備の土器もまた東は畿内、西は九州までの範囲での出土が報告されている。吉備の人もまた各地へと移動していることが窺われる。

 土器の移動の背景が何であったのかは、大和と吉備、吉備と山陰などといった単に地域間の交流といった次元ではなく、日本列島全体の政治事象の中で理解し、考えていかなければならない問題であろう。

 

※グラフおかやま1998年4月号より転載