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茶臼山三題
文/岡山県古代吉備文化財センター 宇垣 匡雅
わらび取りやきのこ狩りをのぞけば、私たちが山野を訪れる機会はそれほど多くない。燃料を山林にもとめていた昭和三十年代以前、山は今よりもずっと身近な場所であり、それぞれの山には天神山・城山など、地形の特徴や伝承などにもとづいた名前が付けられている。
そうした名称の一つに茶臼山、車山がある。茶臼山は茶臼の形、つまり円形の石臼に長方形の取っ手がついた平面形をとらえたもの、車山は水車の形、丸い丘の横に低い張り出しがついた形をとらえた名称とみられ、昔の人々が実に詳細に地形を観察していたことに驚かされる。
円に方形が接続した形で、茶臼山や車山と名付けられた山、実はその多くが前方後円墳である。岡山県下に茶臼山の名をもつ前方後円墳は七基が知られるが、ここでは古墳時代前期の吉備の実力と政治情勢を物語る三基の茶臼山古墳をとりあげてみよう。いずれも最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている。
第一は、岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳である。墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
浦間茶臼山古墳(岡山市)
浦間茶臼山古墳 特殊器台形埴輪の文様
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。
大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。
二つめは岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。
現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。
中山茶臼山古墳(岡山市)
中山茶臼山古墳出土の特殊器台形埴輪
古墳時代は約三百年にわたって前方後円墳に代表される古墳が築かれた時代であるが、ここに紹介した三基の古墳にみられるように、墳丘の規模や形に差異があり、それは首長間の力関係や畿内の首長との関係を表示する政治的なモニュメントであったと考えられている。
墳丘に表示されたこうした情報を読みとり、それに副葬品の検討を加えることによって、古代国家形成期の吉備社会の分析が進められている。
※グラフおかやま1998年6月号より転載