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寺院の建立

更新日:2019年10月15日更新

文/岡山県教育庁文化課 松本 和男

 

服部廃寺の金堂礎石
服部廃寺の金堂礎石(長船町教育委員会提供)

服部廃寺の金堂基壇地覆石 (長船町教育委員会)
服部廃寺の金堂基壇地覆石 (長船町教育委員会)

 日本で最初に本格的な寺院が建立されたのは、西暦588年(崇峻天皇元年)に造営が開始された飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村)であります。その後、畿内およびその周辺の氏族によって寺院が造営されますが、地方での造営は7世紀第2四半期頃からであり、その数は少ないのです。
 その数が徐々に増えてくるのは7世紀中葉頃からであり、数多く造営されるようになるのは7世紀末頃になってからということが明らかになってきています。

 県内では奈良時代までに造営されたと推定される寺院跡が50か所ほど確認されていますが、その内訳は備前国20か所、備中国17か所、美作国13か所であります。これらの寺院のうち、国が建立した官寺である備前、備中、美作の各国分僧寺と尼寺の6か寺を除く44の寺院跡は氏寺跡と考えられています。
 寺の範囲は最小でも1町四方(1万平方メートル)の広い面積をもつため、発掘調査によって寺の範囲や伽藍(がらん)の配置を明らかにしたものは少ないのが現状であります。

 寺域全体にまで発掘調査が行われたものとしては、氏寺では備前国は服部廃寺(長船町)、吉岡廃寺(瀬戸町)、賞田廃寺、幡多(はた)廃寺(岡山市)、備中国は栢寺(かやでら)廃寺(総社市)、関戸(せきど)廃寺(笠岡市)、英賀(あが)廃寺(北房町)、美作国は大海(たいかい)廃寺(作東町)、楢原廃寺(美作町)、久米廃寺(久米町)、五反廃寺(久世町)などがあります。

 一方、官寺は備前と備中の国分尼寺以外は発掘が行われています。調査の結果、氏寺の伽藍配置については、服部廃寺、栢寺廃寺、五反廃寺が四天王寺式、吉岡廃寺は法隆寺式、賞田廃寺は川原寺式ないし薬師寺式、英賀廃寺は法起寺式ないし観世音寺式、大海廃寺は法起寺式が想定されていますが、久米廃寺のように独自の伽藍をもつものもあり、地方の寺院は中央の寺院と同じ伽藍配置をもたないことと寺院に使用された瓦からみて七堂伽藍は長い期間をかけて完備されていたことが明らかになってきました。

 最後に全国的にも数少ない初期に造営された県内の寺院跡と瓦についてみてみたい。初期に造営された寺院跡は、いずれも立派な七堂伽藍をもつものはなく、仏像のみを安置する小規模なお堂のような建物であったとされています。このような初期の寺院として、秦原(はたばら)廃寺(総社市秦)、箭田(やた)廃寺(真備町箭田)、宿寺山(しゅくてらやま)遺跡(山手村宿)があります。

 瓦は津寺遺跡(岡山市津寺)、加茂政所(かもまどころ)遺跡(岡山市加茂)の2か所で出土するとともに、山手村宿には瓦窯(末の奥瓦窯跡)が確認されています。特に加茂政所と津寺遺跡出土の瓦は蘇我氏と傍系氏族の寺と推定される奥山久米寺(奈良県高市郡明日香村)の瓦と大変よく似ているため、蘇我氏との関係が想定されます。

中国四国地方で最古の軒丸瓦(加茂政所遺跡)
中国四国地方で最古の軒丸瓦(加茂政所遺跡)

関戸廃寺の鬼瓦
関戸廃寺の鬼瓦(笠岡市教育委員会提供)

 時期は奥山久米寺の創建が7世紀前半と考えられているため、加茂政所遺跡出土の瓦も7世紀前半と推定され、現在のところ、中国、四国地方で最も古い瓦といえます。

 このように、7世紀前半において吉備の中枢部で蘇我氏関連の遺物をみいだせることは、蘇我氏のもとでの造瓦を考えるうえにおいて重要であります。

 

※グラフおかやま1998年12月号より転載