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山田方谷とたたら製鉄
文/岡山県古代吉備文化財センター 澤山 孝之
山田方谷生誕200年
平成17年は、江戸時代末期に備中松山藩で行財政改革を実行した政治家で教育者でもある山田方谷(やまだほうこく)の生誕200年にあたります。岡山県下でも、方谷ゆかりの高梁市や新見市で、その業績に対する各種の記念事業が開催されました。
方谷が行った諸改革については、以前から歴史研究のなかで高い評価を受けていましたが、近年では、その巧みな財政運営に対して、行政関係者や経済界もその手腕に注目しているところであります。
山田方谷像(高梁市郷土資料館前)
方谷の財政改革
後に幕府の老中ともなる板倉勝静(いたくらかつきよ)が藩主となった嘉永2(1849)年ごろの備中松山藩の財政状況は、歳入のほぼ2年分(実質はそれ以上)にあたる負債を抱えているといった有様でした。
そうしたなか、勝静は財政改革の担当者として、方谷を吟味役兼元締役に起用し、嘉永3(1850)年からさまざまな改革を断行させました。その結果、すべての負債の返済には8年を要したものの、同時に多額の蓄財を成したとされています。
方谷は負債整理に当たって、債権者に借金支払いの引き延ばしを承諾させました。この提案が受け入れられた理由として、領地の備北地域で「たたら製鉄」の原料となる良質の砂鉄と燃料の木炭が豊富に入手できたことが挙げられます。
まさに、債権者は「鉄」を投資の対象と考えたのでしょう。方谷も藩内の産業振興を図るために新設した撫育方(ぶいくがた)により、鉄の生産・販売に力を注ぎ、財政再建の一翼を担わせました。
それでは、この時期の備中松山藩の鉄生産がどのようなものであったのか、方谷の弟子として知られ、また、越後長岡藩の家老として藩政改革に尽くした、河井継之助(かわいつぎのすけ)の手紙を通してみていきたいと思います。
備中松山城(国指定重要文化財)
河井継之助の手紙
継之助が西国遊学から江戸に戻って、両親に宛てた万延元(1860)年4月18日付の手紙に、「…前之三月廿四日備中松山を立、長瀬と云山田之宅江同廿八日迄逗留、翌廿九日雨、山田を辞し、関備前守城下新見宿、晦日晴、油野村之鉄山木下万作と申者之方江参り、両日逗留、製鉄之仕方を見物…」といったくだりが見られます。
この手紙のなかに登場する「山田」とは方谷のことであり、「油野(ゆの)村」は、現在の岡山県新見市神郷油野を示しています。
そして、「木下万作(きのしたまんさく)」なる人物は、鳥取県日野郡日南町阿毘縁(あびれ)の出身で、製鉄業を主な家業とした大庄屋であり、数多くの鉄山を経営して販路を広め、大いに家を栄えさせたとされます。その後、万作は故郷を離れ、この「油野村」に移り住んでいたようです。
方谷との関わりについては、お互いに修行に勉めて読書を楽しんだとされ、鉄山の監督と称して、この油野村にもたびたび足を運んでいたと言われており、両者はたいへん深い間柄であったといえます。
こうしたことから、継之助は方谷の自宅へ宿した時に、方谷の知人で鉄山師(てつざんし)である万作を紹介されて、現地を訪問したと推測されます。
河井継之助の手紙(長岡市郷土史料館所蔵)
木下家の鉄山経営
ところで、明治政府は明治6(1873)年に「日本坑法」と呼ばれる鉱山法を定めて、鉄山経営者が鉱山の試掘や借区開坑を行うための許可願を提出することを求めました。
その当時、先の「油野村」が属する旧小田県に提出された届出をみると、「嘉永六丑(1853)年九月 備中國哲多郡油野村字大成山 一鑪壹々所 木下昌平右者明治七(1874)年参月借区願」および「嘉永六癸丑年九月 同郡油野村字大成山 一錬鐵鍛冶壹々所 木下昌平」という記載が認められます。
さらに、油野村からは木下三郎平といった名義で届出が出されていますが、この三郎平と昌平とは兄弟であり、彼らの父親が継之助の手紙に登場した万作にあたります。
このことから、同村での鉄山経営にこの木下家が大きく関わっていたことがうかがえます。では、継之助が目にした鉄生産の現場とはどういったものだったのでしょうか。
「大成山」について
当センターが、平成8(1996)年から2年間にわたり、三室川ダム建設に伴って発掘調査を実施した新見市大成山(おおなるやま)たたら遺跡群では、中世から近代にかけての操業時期の異なる製鉄関連の遺構を確認しました。
そして、木下昌平の名義で届出された「大成山」の時期にあたる、製鉄場や大鍛冶場、砂鉄洗い場などの施設についても、その実体が明らかとなりました(「古代吉備を探る 大地からのメッセージ(24)たたら」を参照)。
継之助も万作に連れられて、炎が立ち上がる製鉄炉や鍛錬の音が鳴り響く大鍛冶場などに足を踏み入れて、その操業を目の当たりしたのかも知れません。
もちろん、この地で生産された鉄素材は、鍛冶屋で釘や農耕具などの製品に加工されて、城下から江戸に回送して売却されたものと思われます。つまり、この「大成山」も、方谷の行った財政改革の一助となっていたと考えられます。
「大成山」製鉄場
「大成山」大鍛冶炉
「大成山」砂鉄洗い場
最近の発掘調査から
近世の鉄生産については、近年の発掘調査で貴重な資料が得られています。
平成12(2000)年には、苫田郡鏡野町の福見口(ふくみぐち)遺跡の発掘調査で、大鍛冶場の炉の配置構造が確認されました。
また、平成13(2001)年からの2年間にわたり発掘調査を行った、新見市の京坊(きょうぼう)たたら遺跡では、「大成山」の時期よりやや古い製鉄場が検出されました。
最近では平成16(2004)年に、鏡野町の茶畑(ちゃばたけ)たたら遺跡で、製鉄の地下構造の上層に木炭が充填された製鉄場が確認されています。今後の調査によって、新たな発見が期待されます。
明治時代の初めごろまで、中国山地一帯は全国の鉄生産量の約8割以上を占めていたとされています。わずか100数十年前の岡山県の北部地域は、日本を代表する重工業地帯であったといえるでしょう。
京坊たたら遺跡製鉄場
茶畑たたら遺跡製鉄場
※2004年11月掲載