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治水 百間川と二の荒手
文/岡山県古代吉備文化財センター 團 奈歩
水。それは人が生きていくために必要不可欠な存在です。しかし時として水は、洪水や土砂災害をもたらし、人の生活や命までも奪ってしまうことがあります。その水を、人の手によって可能な限りコントロールしようとすることを「治水」といいます。人々は堤防やダムを作り、流路を付け替えるなどの様々な工夫を試みてきました。
江戸時代、岡山で大規模な治水事業が行われました。旭川から洪水で溢れ出る水を放流するため人工の放水路を建設したのです。「百間川」と呼ばれているこの放水路は、今の岡山市中区竹田・中島あたりで旭川から分流し、操山の北麓を東流して、岡山市中区米田で南へ流路を変えて児島湾へと注ぐ、全長12キロにも及ぶものです。
江戸時代の初め頃の1654(承応3)年、岡山城下は旭川の洪水に見舞われ、甚大な被害を受けます。これは、単なる増水による被害というよりも、人為的な災害という側面が大きいものでした。旭川上流で行われていたタタラ製鉄に伴う山林の伐採や土砂の流入に伴い、川底が浅くなったことに加え、1594(文禄3)年に岡山城築城に際して、旭川の流れを城を取り囲むよう付け替えたため流路は不自然になり、水の流れを妨げることになったのです。
そこで当時、岡山藩の熊沢蕃山〈くまざわばんざん〉は「川除けの法」を考案します。これは、洪水時に旭川から溢れ出る水を越流堤から放水路に分流させるものでした。これを津田永忠〈つだながただ〉が献策して現実の形にしたのです。1669(寛文9)年には、旭川の左岸に越流堤(大荒手)をつくり、児島湾へ注ぐ中川へ放水されるように改修が行われました。1673(延宝元)年に1654(承応3)年と同規模の洪水が発生した際には城下の被害は軽微なものとなり、目に見えてその成果が現れました。
しかし、放水路側の被害が以前にもまして大きくなったため、越流堤と堤防の改修が行われたのです。越流堤を3か所設け、天端幅3m・高さ3mの堤防を築き、1686(貞亨3)年に完成したと伝えられています。3か所の越流堤は、旭川に近い方からそれぞれ「一の荒手」「二の荒手」「三の荒手」と呼ばれています。その仕組みは旭川の水量が増えるとまず、一の荒手を越流し、一の荒手と二の荒手の間に貯まることで土砂は沈殿します。さらに水量が増すと二の荒手、三の荒手を越えて流下しました。越流堤を三段構えにすることで、水の勢いと流れ出る土砂を抑制したのです。この放水路が「百間川」と呼ばれているのは、二の荒手の幅が約百間(180m)であることに由来しているそうです。
百間川の河川敷は洪水時のみ水が流れ、普段は水田が営まれていました。しかし洪水が起こるたびに被害を受けたので、耕作している農民には補償として「加損米〈かそんまい〉」が支給されました。また、百間川の構造によって遮断された往来には堤防を切って陸閘〈りっこう〉が作られ、洪水時にはここに板をはめて使用するなど、洪水との共存も図られていたと考えられます。
岡山市中区米田の百間川 河川敷内に残る陸閘
百間川のこのような姿は、幾度もの改修を重ねながらも、堤防改修工事が始まる昭和40年代まで、当時の姿を留めていました。この改修工事によって既存の堤防は高さ5mまでかさ上げされ、水田が広がっていた河川敷には、通水量を増やすために深さ約2mの低水路が掘削されて、現在は当時の面影を見ることはできません。一見、自然の河川のようにも思えるほどです。
一部残存している旧堤防
しかし、30年以上前に始まった改修工事は、現在も続いています。この改修工事を契機として、百間川の堤防内では昭和49年から発掘調査が行われ、百間川築造以前の様子が明らかとなりましたが、平成6・7年度には二の荒手の発掘調査も行われています。この調査では、右岸導流堤は石積みの形状から3回程度の改修が行われたことが確認され、改修を繰り返しながら300年以上の長い期間、洪水による濁流に耐えてきたことがわかりました。
現在の百間川の改修工事(平成25年12月15日撮影)
平成10年の台風10号、平成23年の台風12号は県内に多くの被害をもたらしました。旭川から越流堤を越えて百間川へと流入した大量の水は、河川敷を覆うほどでした。もしこの百間川がなかったら・・・岡山市街地はもっと大きな被害を受けたに違いありません。江戸時代の人の知恵が、今の私たちの生活を支えているのです。
※2014年2月掲載