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撫川うちわ(県指定郷土伝統的工芸品)

印刷ページ表示 ページ番号:0349953 2014年1月6日更新マーケティング推進室

特色

 江戸時代に武士の内職として作られ始めた、ふっくらとしたお多福型のうちわ。俳句を詠み込んだ「歌継ぎ」といわれる雲型模様と、その句に合わせた花鳥風月の絵柄と「透かし」が特徴です。
撫川うちわ写真
 

指定の内容

一 名称
   撫川うちわ(なつかわうちわ)

二 技術又は技法の内容
 1 すべて手作業により、「すかし」、「歌つぎ」の技法によること。
 2 骨作りは64本以上とすること。

三 使用する原材料
   主原料の竹は撫川近郊のものを使用すること。

四 製造される地域
   岡山市

(指定年月日 昭和57年3月1日)
 

歴史

 江戸時代のはじめ、三河国の城主・板倉家の家臣の間で、趣味的に精巧な雅趣あふれるうちわが入念に製作され、将軍家に献上されていたことが寛文5年(1655年)の文書にあらわれている(現在の「撫川うちわ」かどうかはは不明)。その後、板倉家が庭瀬藩へ移封され、次第に家臣の間でも身分の低い下級武士の間へ技術が伝承されて内職的なものになり、さらには隣接の撫川知行地や町家にも技術が伝わり、領内の商人によって広く販売されたもののようで、天保年間(1830~1843年)に発行された「備中国見取図」には「撫川うちわ」が備中国の名産物としてあげられている。
 その後、明治時代になって文明開化が進み、機械工業も発展してくるにつれて、うちわも実用的で安いものが大量生産されるようになり、生産数もわずかで比較的高価な「撫川うちわ」は次第に衰退の途をたどったが、優雅で精巧な「撫川うちわ」の製造の技術技法は、有志の手によって引き継がれ、現在は「撫川うちわ保存会 三杉堂」が中心となって、技術の伝承と後継者育成に取り組んでいる。
 

主要製造工程

 (骨作り)
 「竹材切断」 切り出した女竹を、丸いまま、うちわの寸法に合わせた長さに切る。
  ↓
 「竹割り」 骨になる部分の竹を、細く64本に割る
  ↓
 「竹削り」 骨の厚さを揃えるため、台の上で削る
  ↓
 「横手」 真竹を割って削り、うちわの柄に穴をあけて入れ、固定する
  ↓
 「編む」 骨を糸で編んでいく
  ↓
 「つばぜめ」 骨の要(かなめ)部分の弾力を弱めるため、台の上に載せ、刀のつばでしっかり押さえつける
  ↓
 「糊入れ」
  ↓
 「乾燥~修正」
  ↓
 (地紙すかし作り)
  花鳥風景をスケッチして彩色し、原図をつくる
  ↓
  原図のポイントとなる部分を切り抜き、色紙を裏から貼ってすかし絵にする
  ↓
 (地紙歌つぎ)
  和紙に筆で俳句を書き下絵とする。このとき、字が全部つながるようにする。
  ↓
  灰色に染めた和紙と、地紙をそれぞれ文字の片側に沿って切り抜く
  ↓
  灰色紙と地紙を文字の部分で貼り合わせると、紙が重なり合って俳句が浮き出てくる
  ↓
 (紙貼り)
  紙に糊を付け、着色した和紙で作った草花の葉や茎などを配置する
  ↓
  紙と骨を貼り合わせ、骨の間隔を修正する
  ↓
  よく乾いたら、うちわの型紙を置いて輪郭を取り、はさみで型どおりに切る
  ↓
  へらで骨と骨の間をしごき、骨を浮き出させる
  ↓
 (仕上げ)
  紫色に染めて裏打ちをした絹を小さく切って、縁や要に貼る

  ※上記は、指定申出時の提出書類に基づくものです。
 
 

撫川うちわ(英訳)

Natsukawa Fans
Designated March 1, 1982
Cloud patterns, called “poem succession,” which read haiku and below, patterns of natural beauty are arranged by “watermark” techniques. In the middle of the Edo Period, these fans were first made by lower ranking warriors of the Niwase Domain as side jobs. This fan invites cool refreshing wind just by its elegance.