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篠向城跡

更新日:2019年9月25日更新

篠向〈ささぶき〉城跡 真庭市三崎・大庭・平松・古見 

 篠向城跡は、旭川と目木川の合流点を西に見下ろす笹向山(標高419m)に築かれています。ここは、勝山・出雲方面や津山・播磨方面、新見・高梁方面へ向かう交通路の結節点にあたります。

 山全体に防御施設を配した縄張りで、その広さは東西約600m(西尾根端部の曲輪群まで含めると約1,350m)、南北約700mに及びます。山頂に並ぶ東西3つの峰には、それぞれ広い曲輪を築いており、東側から本丸・二の丸・三の丸と呼ばれています。本丸を取り巻く斜面の切岸は崖のように切り立っていて、その高さは約8mもあります。本丸のある峰が尾根から突き出たようなその姿は、北西に約5km離れた大寺畑城跡(真庭市久世)や、東北東約5.6kmにある岩屋城跡(津山市中北上)からも容易に識別することができるほどで、この城の特徴の一つとなっています。また、周りに4つの腰曲輪を配した本丸や三の丸の斜面には、畝状竪堀群を設けて敵の侵入を防いでいますが、その保存状態はきわめて良好です。特に三の丸の西斜面は全体を見渡すことができ、畝状竪堀遺構の様子がよくわかります。このほか、本丸や三の丸から延びる尾根筋にも多数の曲輪を造って守りを固めています。さらに、本丸と二の丸の間に入りこんだ谷には小さな池や井戸状の窪みが見られ、当時から水源として利用していたのかも知れません。

大寺畑城跡から見た篠向城跡
大寺畑城跡から見た篠向城跡

 

岩屋城跡から見た篠向城跡
岩屋城跡から見た篠向城跡

三の丸西斜面の畝状竪堀群
三の丸西斜面の畝状竪堀群

 次に、篠向城の歴史をたどってみましょう。

 この城がいつ頃築かれたのかはっきり分かっていません。江戸時代に編まれた『作陽誌』は、建武年中(1334~1338年)以前に長野越中守が築城したという説があるとしていますが、真偽のほどは不明です。

 南北朝時代に入ると、播磨(兵庫県)を本拠とする赤松氏が美作国守護となりますが、康安元年(正平16年、1361)には、伯耆・因幡(鳥取県)に勢力を持つ山名氏が南朝方として美作国に侵入します。この頃の争乱を描いた『太平記』には、山名方が「一矢ヲモ不射」に降参させた6城の一つに「飯田ノ一族ガ籠タル篠向ノ城」が挙げられています。その後も赤松・山名両氏は美作をめぐって対立し、篠向城も両氏の間で争奪が繰り返されたようです。

 戦国時代になると、篠向城にほど近い高田城(真庭市勝山)は、出雲(島根県)の尼子氏や、安芸(広島県)の毛利氏によって再三攻撃されますが、この間、篠向城がどのような状況にあったのか、よくわかっていません。天正7年(1579)には、毛利氏に与して美作に勢力を伸ばした備前の宇喜多氏の手中にあったようですが、織田氏に属して毛利氏と激しく対立するようになり、翌年には毛利氏に攻められた大寺畑城主の江原親次<えばらちかつぐ>がこの城に逃れるものの、程なく落城したようです。しかし、天正10年(1582)に織田氏の武将であった羽柴秀吉が毛利氏と講和を結ぶと、篠向城は再び宇喜多氏の領有するところとなります。城主となった江原親次は城郭や城下の整備を行ったようですが、宇喜多秀家に従って出陣した朝鮮の釜山浦で病死したといい、篠向城もやがてその役割を終えました。 

参考文献

  • 『久世町史』久世町教育委員会1975
  • 『日本城郭大系 第13巻』新人物往来社1980
  • 正木輝雄・矢吹正則、矢吹金一郎(校訂)『新訂作陽誌』作陽新報社1913
  • 後藤丹治・釜田喜三郎(校注)『太平記三 日本古典大系34』岩波書店1962
  • 池上博・森俊弘『篠向城跡 NTTドコモ中国受信施設事業に伴う発掘調査報告』NTTドコモ中国受信施設埋蔵文化財調査委員会2007
  • 新谷俊典・白石純・森俊弘『篠向城 久世デジタル放送中継局建設事業に伴う発掘調査』久世デジタル中継局建設事業埋蔵文化財調査委員会2008
  • 『美作国の山城』第25回国民文化祭津山市実行委員会2010
  • 『岡山県歴史人物事典』山陽新聞社1994

篠向城跡アクセスマップ
篠向城跡アクセスマップ

最寄り駅は、姫新線「古見駅」。山頂付近まで道が通じており、車で登れますが、幅が狭いので注意。中国自動車道「北房Ic」から車で10分

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