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天神山城跡
天神山〈てんじんやま〉城跡 (県指定文化財) 和気郡和気町岩戸・田土
中国山地に源を発し、備前平野を潤して瀬戸内海に注ぐ吉井川は、岡山三大河川の一つに数えられ、古くから山陰と山陽を結ぶ主要交通路として、重要な役割を果たしてきました。天神山城は、その吉井川左岸に位置する標高約340mの尾根上に築かれていますが、この場所は、吉井川中流域の広い範囲を見渡すことができる要衝の地です。
天神山城遠景(西から)
太鼓丸からみた天神山城(南東から)(中央右寄り、その左に吉井川)
この城を築いたのは、岡山を代表する戦国大名の一人、浦上宗景〈うらがみむねかげ〉ですが、城の存続時期については諸説があります。これまでは、築城を享禄5年(1532)、落城は天正5年(1577)とされていましたが、最近の研究によると、築城が天文23年(1554)頃まで下ること、その一方で落城は天正3年(1575)にさかのぼることが指摘されています。この年代観に立てば、山陰地方に勢力を張った尼子晴久〈あまこはるひさ〉が美作・備前両国への侵攻を本格化させた時期と築城の時期が重なることとなり、前々回にこのコーナーで紹介した三石城〈みついしじょう〉(備前市)を居城としていた 宗景が、備前平野から奥まったこの地に天神山城を築いた理由を読み取ることができるかもしれません。
この天神山城を拠点として勢力を伸ばした宗景は、天正元年(1573)に織田信長〈おだのぶなが〉から備前・美作・播磨三か国の朱印状を与えられるまでに勢力を伸ばしましたが、そのわずか2年後に家臣であった宇喜多直家〈うきたなおいえ〉に攻め立てられ、天神山城も落城しました。その後も宇喜多直家はしばらくこの城を使用していたようで、各所に見られる石垣や瓦はこの時期のものと言われます。
城は、長さ約450m、幅約10~20mの細長い尾根上のほぼ全面を利用し、堀切や階段状整地により区画された郭が並ぶ連郭式となっています。長さ約55mの大きさの主郭(本丸)の西に続く尾根を幅約10m、深さ3m以上にわたって掘り切るなど、その造作は大規模なものです。また、今回の総合調査で急峻な斜面についても幾重にも郭を設けていることが分かり、非常に複雑かつ強固に築城されていた様子が明らかになりました。
ここから深い谷をはさんで南東に約500m離れた尾根上(実はこちらが天神山山頂にあたります)にも城の遺構が確認されています。太鼓丸〈たいこまる〉と呼ばれるこの場所は、二つの峰に城の造作を集中する特徴をもっています。天神山城(本城)と近い位置にあって見通しもきくことから、深いつながりのある遺構と考えられます。しかし、尾根の全面を利用して強固に造作をした本城とは城の構造が違うことを重視して、これに先駆けて築かれた「古天神山城」とする見方もあります。なお、山麓の登城口周辺には、根小屋跡・岡本屋敷跡・木戸跡などの関連遺構も知られています。
階段状に整地された天神山城(北西から)
要所に配された石垣(南から)
このように、天神山城は、県内の中世山城の中でも有数の規模や構造を誇り、また保存状態も良いことから、昭和57年(1982)に岡山県の史跡に指定されました。
*和気美しい森から天神山城太鼓丸まで徒歩10分、天神山城まで徒歩40分
(和気美しい森へは、JR山陽本線和気駅から車で20分、山陽自動車道和気Icから車で20分)
天神山城アクセスマップ