ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

おかやまの中世争乱史

更新日:2019年9月25日更新

おかやまの中世争乱史

 今の岡山県は、中世では備前国、備中国、美作国に分かれ、これらの国々の支配を巡って、鎌倉時代末以降、たびたび争乱が起こっていました。
 室町時代の始めの頃(南北朝時代)には、南朝方と北朝方に分かれた有力武士が抗争を繰り返し、室町時代の中頃(戦国時代の前半)になると、下克上〈げこくじょう〉の風潮が広がって、守護代〈しゅごだい〉や国人〈こくじん〉などが守護〈しゅご〉から実権を奪い取り、各々が領国〈りょうごく〉拡大を目指して戦いを繰り返していました。特に室町時代の終わり頃から安土桃山時代前半(戦国時代の終わり頃)には、周辺の大勢力である毛利氏と織田氏の領地の境界にあったことから、各地で激しい戦闘が行われました。

用語説明

下克上:身分が下位の者が上位の者にとってかわること。建武の新政を批判した二条河原落書〈にじょうかわらのらくしょ〉に「下克上する成出者」という表現があるが、この頃から盛んに使われるようになった。
 
守護:原則として各国に一人置かれた。鎌倉時代の守護は国内の御家人(幕府の家来)のまとめ役だったが、室町時代になると、権力を拡大してその地域の支配者となっていった。彼らのことを守護大名と呼ぶ。


守護代:「守護の代理人」を守護代という。京都や鎌倉にいる守護の代わりに、守護が支配している地域を管理している人をさす。

国人:室町時代の在地領主で、主に守護の家臣になっていない、その国生え抜きの武士のことをさす。国衆〈くにしゅう〉・国人衆ともいう。生え抜きの武士のため、領地・支配地との結びつきは強く、そのため大きな力をもつ者も現れた。

目次

岡山の中世争乱史