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動乱のはじまり

更新日:2019年9月25日更新

倒幕と新政の挫折

 元弘元(1331)年、倒幕の企てが露見して笠置山〈かさぎやま〉(奈良県)に立て籠もった後醍醐〈ごだいご〉天皇は、7万もの幕府軍に敗れて捕えられ、隠岐島(島根県)へ流されます [註1]。しかし、その2年後に島を脱出し、伯耆(鳥取県)の武士名和長年〈なわながとし〉の支援を受けて船上山〈せんじょうさん〉に再挙しました。これに呼応した下野(栃木県)の有力御家人足利高氏〈あしかがたかうじ〉[註2]や播磨(兵庫県)佐用荘の赤松則村〈あかまつのりむら〉は六波羅探題〈ろくはらたんだい〉を攻略しました[註3]。上野(群馬県)の御家人新田義貞〈にったよしさだ〉も鎌倉に攻め入り、250年余り続いた幕府は滅亡しました。
 
 京に環幸した後醍醐天皇は元号を建武〈けんむ〉と改めて新政を始めますが、建武2(1335)年、これに不満を抱いた足利尊氏は反乱鎮圧のために下った鎌倉で天皇への叛意を明らかにします。新田義貞率いる追討軍を箱根竹下(神奈川県)で撃退した足利勢は、建武3年に入って京へ攻め入りますが、楠木正成〈くすのきまさしげ〉・北畠顕家〈きたばたけあきいえ〉らに破れてやむなく九州に退くことに。しかし、そこで待ち受けていた菊池氏・阿蘇氏ら2万の大軍を多々良浜〈たたらはま〉(福岡県)で破ると、尊氏は再び京を目指して東上を始めました。一方、追討を命じられた新田義貞は、赤松氏の拠〈よ〉る白旗城(兵庫県)や足利氏の武将の籠もる三石〈みついし〉城(備前市)を攻めあぐねているうちに[註4]、新田勢の守る福山城(総社市)が陸路を進撃する足利直義〈あしかがただよし〉[註5]の攻撃を受けて落城。退却した新田義貞は楠木正成とともに湊川〈みなとがわ〉(兵庫県)で決戦を挑みますが、海路を進む足利尊氏の上陸を許して敗退。比叡山に逃れた後醍醐天皇も入京した足利勢に降りました。

南北朝の対立

 囚われた後醍醐天皇は尊氏が擁立した光明〈こうみょう〉天皇への神器の譲渡を迫られますが、機を見て吉野(奈良県)に脱出。ここに二人の天皇が並び立つ南北朝の混乱が始まりました。観応元(1350)年には足利尊氏・義詮〈よしあきら〉と足利直義・直冬〈ただふゆ〉[註7]との対立も加わって[註8]、およそ50年にわたる動乱が引き起こされたのです。長門探題として中国地方に威〈い〉を揮〈ふる〉った直冬に従う者はこの地にも多く、直冬に味方する高越〈たかごし〉城(井原市)の攻略を命じた尊氏の文書が残っています。足利氏の一族で伯耆守護に任じられていた山名時氏〈やまなときうじ〉も、文和2(1353)年、直冬に与〈くみ〉して美作・備前・備中を席巻し、さらに京にまで進行して義詮を美濃(岐阜県)へ追いやりました。一方、美作守護に任じられた赤松氏は、山名方の英多〈あいだ〉城(美作市)を攻略するなど、美作の回復に成功します。康安元(1361)年になると、時氏は大挙して美作に侵攻し、名木仙〈なぎのせん〉・大見丈〈おおみじょう〉・菩提寺〈ぼだいじ〉(奈義町)、小原・大野・林野・妙見・倉掛〈くらかけ〉(美作市)、篠吹〈ささぶき〉(真庭市)の諸城を次々と攻略。翌年には備前・備中に進出し、これに呼応した直冬も備後を攻めるなどして支配権を拡大していきました。このような状勢を見た幕府は、貞治2(1363)年、美作を含む5か国の守護職を認めることで時氏を北朝に帰順させることに成功。大内氏に続いて山名氏という有力守護の支援を失った南朝は衰運に向かい、明徳3(1392)年、ついに南朝の後亀山天皇は神器を北朝の後小松天皇に譲り、南北朝合一が果たされました。しかしながら、両統迭立〈りょうとうてつりつ〉の約束が守られなかったことから、南朝の勢力はその後もしばらく反幕活動を続けることになります。

山名方の進軍コース
山名方の進軍コース

赤松・山名の争い

 その後、11か国の守護職を得るまでになった山名一族は、六分一殿〈ろくぶいちどの〉と呼ばれるほど威勢を誇っていましたが、明徳2年、守護勢力の弱体化を狙う3代将軍足利義満〈よしみつ〉の挑発に乗って挙兵した山名氏清[註9]が滅ぼされ(明徳の乱)、美作守護は赤松氏に与えられます。その赤松氏も満祐〈みつすけ〉[註10]の時、専制政治を推し進める6代将軍足利義教〈よしのり〉の圧迫を受けたことから、嘉吉元(1441)年に義教を殺害。播磨へ退去した満祐は幕府の追討を受けて自害し(嘉吉の乱)、播磨・備前・美作の守護職は山名氏に与えられました。
 
 けれども、赤松氏の遺臣たちは、南朝に奪われていた神器奪還の功により家の再興を許され、長禄2(1458)年には備前新田〈にゅうた〉荘(和気町)が与えられます。応仁元(1467)年、8代将軍足利義政〈よしまさ〉の継嗣問題や管領畠山・斯波〈しば〉家の家督相続をめぐって大乱が勃発すると(応仁の乱)、西軍の山名持豊〈もちとよ〉(宗全、時氏の曾孫)と対立する東軍の細川勝元は赤松氏の備前侵攻を支援、赤松氏は3年にわたる激しい戦いの末、備前・播磨・美作の旧領を回復したのです。
 
 その後も山名氏の侵攻は止みません。但馬(兵庫県)守護山名政豊〈まさとよ〉(持豊の子)は文明12(1480)年に美作、文明15年には備前・播磨に侵攻。備前の松田氏も備中の庄氏とともに備前守護代の浦上〈うらがみ〉氏が籠もる福岡城(岡山市・瀬戸内市)を攻め、これを陥れます。しかし、赤松氏も文明17年頃からようやく反攻に転じ、長享2(1488)年まで山名氏と激戦を繰り広げましたが、但馬における国人の反乱を危惧した政豊が軍勢を引き上げたことから、赤松氏による3国の支配はようやく安定したのです。

 この時代の岡山県の出来事を記した書物には、以下のようなものがあります。

  • 「岡山県史」中世1・2、編年史料 岡山県
  • 「備前文明乱記」『吉備群書集成』第3輯
  • 「新釈備前軍記」山陽新聞社

山名・赤松勢力変遷図

山名・赤松勢力変遷図

  • 註1:配流の道程で天皇奪還を画策するも果たせなかった備前の武士児島高徳〈こじまたかのり〉が、美作の院庄(津山市)で天皇を励ましたという「太平記」のエピソードは、戦前の教科書にも取り上げられてよく知られています。
  • 註2:のちの尊氏、室町幕府初代将軍。
  • 註3:この戦いに参加した武士として「太平記」は備前の伊東・松田、備中の頓宮・田中、美作の有元・福光・原田・植月・鷹取等の名を伝えています。
  • 註4:倉敷市の妹山では庄・真壁・陶山・成合・新見・多治部氏らが、奈義町の菩提寺城では管・江見・広戸氏らが新田勢を防いでいます。
  • 註5:足利尊氏の弟。
  • 註6:足利尊氏の子、2代将軍。
  • 註7:足利直義の養子。
  • 註8:観応〈かんのう〉の擾乱〈じょうらん〉。
  • 註9:山名時氏の子。
  • 註10:赤松則村の玄孫。

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