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泰平の世の到来

更新日:2019年9月25日更新

慶長の築城ラッシュ

 慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いに勝利したのは東軍を率いる徳川家康〈とくがわいえやす〉でした。ただ、この時東軍の主力として戦ったのは、福島氏や黒田氏、生駒氏、山内氏などの豊臣恩顧の大名達だったのです。そのため、家康は戦後の論功行賞〈ろんこうこうしょう〉において、彼らに大幅な加増を行い、国持ち大名として西国に入封させます。慶長8(1603)年、徳川家康は征夷大将軍〈せいいたいしょうぐん〉に任じられますが、大坂城には豊臣秀頼〈ひでより〉が健在であり、天下が定まったとは言いがたい状況でした。

 関ヶ原の戦いの後、豊臣恩顧の大名達は任地へ入ると自国の城を築城、あるいは修築しました。この時築城・修築された城として、加藤氏の熊本城、黒田氏の福岡城、毛利氏の萩城、福島氏の広島城、藤堂氏の今治城、そして池田氏の姫路城などが知られています。一方、徳川氏もこれに対抗するかのように伏見城、二条城、名古屋城、駿府城、そして本拠である江戸城の修築を行います。これら徳川氏に関わる築城・修築は主に西国の大名達に命じて実施させました。こうした空前の築城活性期を「慶長の築城ラッシュ」と呼ぶ研究者もいます。慶長年間後半は徳川氏と豊臣氏との間に発生した緊張関係を背景にして、多数の近世城郭が誕生することになったのです。

 こうした状況下のもと、岡山城へも近世城郭化の第二の波が押し寄せることとなります。

小早川・池田氏による岡山城の改修

 慶長5年、宇喜多〈うきた〉氏の滅亡後、岡山城に入城してきたのは関ヶ原の戦いで勝敗を握るキーマンであった小早川秀秋(詮)〈こばやかわひであき〉でした。彼は本丸中の段の南西隅に大納戸櫓〈おおなんどやぐら〉の前身となる櫓を造営しました。この櫓は宇喜多氏の旧本城であった沼城〈ぬまじょう〉から移したものだと言われています。しかし彼は慶長7(1602)年に没し、跡継ぎがいなかったことから小早川氏は改易〈かいえき〉となりました。

 翌慶長8年、備前国は姫路城主の池田輝政〈いけだてるまさ〉の子である忠継〈ただつぐ〉に与えられました。忠継は輝政と家康の娘である督姫〈とくひめ〉との間に生まれた子で、家康から見て外孫にあたりました。当時備前国は豊臣恩顧の大名達がひしめく西国に対する最前線にあたっており、家康がその備えとして血族〈けつぞく〉にあたる忠継に備前国を与えたのは明らかな政治判断であったと思われます。ただ、この時、忠継は幼年で、異母兄の利隆〈としたか〉が岡山城に入り代政します。この忠継期には本丸の守りを固める大納戸櫓〈おおなんどやぐら〉(写真1)の他、西の丸と西手櫓〈にしてやぐら〉(写真2)、対面所、石山門、外下馬門など、岡山城の中核的防御施設が修築、造営されます (1)。慶長15(1610)年当時、池田氏は一族で播磨国、淡路国、因幡国、備前国を領有する大大名に成長しており、総本城である姫路城の他、岡山城を含め領内で12もの城が築城・修築されたことがわかっています。まさに「慶長の築城ラッシュ」を池田氏も体験していたのです。

鉄門跡
写真1 大納戸櫓跡(石垣の上に三層の櫓がありました)

西手櫓

写真2 西手櫓(現存、重要文化財)

豊臣氏の滅亡と岡山城の完成

 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発〈ぼっぱつ〉し、ついに徳川氏及びこれに従う諸大名と豊臣氏の間に戦端が開かれます。徳川氏と豊臣氏は一端和睦〈わぼく〉するのですが、翌慶長20(1615)年5月に起こった大坂夏の陣において豊臣氏が滅亡します。この年の2月に忠継が亡くなっており、6月には忠継の弟である忠雄〈ただお、ただかつ〉が淡路国から備前国へ国替えとなります。翌閏〈うるう〉6月には「一国一城令〈いっこくいちじょうれい〉」が発布され、各国に一城を残してその他すべての城を壊〈こわ〉すよう命令が出されました。こうして、「慶長の築城ラッシュ」に終止符が打たれたのです。続く7月には慶長から元和へ改元され、元和偃武〈げんなえんぶ〉と呼ぶ泰平の世への道筋が開かれることとなりました。

 忠雄治世下において、本丸中の段北東端に月見櫓(写真3)が造営されます。この時の工事の主眼は本丸政庁の拡張にあり、政治機能の拡充が目的であったと見られます。この頃、忠雄の元には淡路国から連れてきた家臣団と、元々忠継に従っていた家臣団の両方が存在しており(2)、政庁機能の拡充が求められたのもうなずけます。また、月見櫓の一階には大きな花頭窓〈かとうまど〉が開いているだけでなく、2階には城内方向に向かって障子窓〈しょうじまど〉が開いており、防御施設としては不向きでした。すでに戦国の世は遠く、泰平の世への入り口に到達したまさにその時、近世城郭としての岡山城は完成を見たのです(3)。

 寛永9(1632)年、忠雄は亡くなり遺児の 光仲〈みつなか〉が跡を継ぎますが、幼年を理由に鳥取城主の池田光政〈みつまさ〉が岡山城に入ります。以後、岡山城は大きな修築を経ることなく明治維新を迎えました。

月見櫓
写真3 月見櫓(現存、重要文化財)

(1)乗岡実 「岡山城跡の石垣」『岡山市埋蔵文化財センター研究紀要』第1号 2009 岡山市教育委員会
(2)内池英樹 「池田忠雄家臣団の知行制についての一考察―鳥取藩家譜をもとにして―」『鳥取地域史研究』第11号 2009 鳥取地域史研究会
(3)乗岡実 「池田忠雄による徳川期岡山城の完成」『岡山市埋蔵文化財センター研究紀要』第2号 2010 岡山市教育委員会

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