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天下統一と近世城郭の誕生

更新日:2019年9月25日更新

天下人と城

 天正4(1576)年、織田信長〈おだのぶなが〉は近江国の安土山の地において新たな居城の築城を開始しました。この時築かれた安土城は、日本史上初となる総石垣の城でした。安土山の最高所には礎石建物である高さ32mを測る「天主(安土城のみこの語を使います。)」がそびえ、その麓には同じく礎石建物の御殿がありました。「天主」には金箔貼りの瓦が葺かれ、遠くからは燦然〈さんぜん〉と輝いて見えたことでしょう。

 信長の天下統一事業を引き継いだ羽柴秀吉〈はしばひでよし〉(後の豊臣〈とよとみ〉秀吉)は天正11(1583)年、摂津国で大坂城の築城を開始しました。大坂城は安土城と同じく総石垣の城であり、本丸には安土城と同じく金箔を貼った瓦を葺いた天守が建っていました。

 このように「礎石建物・石垣・瓦」の組み合わせが、天下人の居城である安土城、大坂城において採用されたのです (1)。そしてこの二つの城こそが、以後、江戸時代初期まで相次いで築かれた近世城郭の祖となるのです。

 近世城郭は天守や御殿を中核とする求心的な縄張りをもち、城主の権威を示す政治機能を存分に果たしました。また、枡形〈ますがた〉と呼ばれる入り口や、櫓〈やぐら〉や土塀と石垣を組合わせた遮断線〈しゃだんせん〉など、強力な軍事機能を有していました。近世城郭はこうした政治・軍事機能の複合体と言えるのです。

 そこで今回は、岡山県を代表する近世城郭の一つ、岡山城を舞台として、その出現を見ていきましょう。

 なお、岡山城については本丸跡における調査成果により、その築城と修築の過程が判明しており(2・3)、その成果を参考に述べていくことにします。
 

宇喜多氏の岡山城入城

 ここで、少し時間をさかのぼって、岡山城築城の歴史に触れておきます。大永(1521~27)年間には、金光備前守〈かなみつびぜんのかみ〉が現在の天守が建つ岡山の西どなりの石山に城を築いていたとされます。続く元亀元(1570)年、沼城主の宇喜多直家〈うきたなおいえ〉が、岡山城にいた金光備前守の子である宗高〈むねたか〉を没落させ、自らの城番を置くことに成功します。その後、天正元(1573)年までには石山へ入り、城を築きました。 この時に直家、あるいはその子の秀家〈ひでいえ〉が若年期に築いた石垣の一部が、岡山市教育委員会により発掘されています。この石垣は高さ1mにも満たないもので、後背の土塁が崩れないように積まれた、土留めのようなものだったとされます(写真1)。最初期の岡山城は、中世以来続く土作りの城の域を出ないものだったのです。

岡山城創建期の石垣
写真1 岡山城創建期の石垣(岡山市教育委員会提供)

宇喜多秀家による岡山城の改修

 天正18(1590)年、関東の後北条氏を討伐〈とうばつ〉した豊臣秀吉は、続いて奥州仕置きを行いここに天下統一が果たされました。この頃、秀家は秀吉の助言を受け、城の中核を岡山に移した上で、「礎石建物・石垣・瓦」を備える近世城郭へと岡山城の改修を開始しました。この際、岡山の東を流れていた旭川(大川)を付け替え、岡山城本丸を守る外堀としました。また、本丸の周囲に高石垣を築き、三重の堀を巡らせ、遮断線〈しゃだんせん〉を築きました。結果、土作りの中世城郭であった岡山城は、総石垣の近世城郭へとその姿を大きく変えることとなったのです。

 慶長2(1597)年に竣工した天守は、太平洋戦争末期の昭和20(1945)年6月の岡山大空襲により焼亡しました。現在の天守は、図面や写真などをもとに、昭和41(1966)年に再建されたものです(写真2)。岡山城の天守は三重(四重とも)六層造で、西側(写真左)に接する塩蔵との複合式天守です。現在は天守の地下階から中へ入ることができますが、築城当時は塩蔵から入っていました。この天守は礎石建物で、現在その土台となった礎石が本丸本段の一角に移されています(写真3)。天守台石垣の平面は不等辺な五角形ですが、階を重ねるごとに形が整い、最上層に突き出た櫓部分の平面形は正方形となります。壁は全て土籠めとしていましたが、表面には全体に黒色の下見板〈したみいた〉を貼っていました。こうした黒色の天守は秀吉の大坂城のそれに倣うものでした。屋根は本瓦葺きで、金箔〈きんぱく〉貼りの瓦が葺かれていました。その一部と思われるものが岡山城中の段の発掘調査で見つかっています(写真4)。こうした建物の外観から岡山城は、「烏城」や「金烏城」の別称で呼ばれています。

岡山城天守
写真2 岡山城天守(復元)

天守の礎石
写真3 岡山城本丸本段に残る天守の礎石

金箔瓦
写真4 岡山城本丸中の段出土の金箔瓦(岡山市教育委員会提供)

次に、秀家が築いた石垣を見てみましょう。秀家期の石垣は、現在でも本丸本段北の天守台石垣や、本丸本段南部の高石垣として見ることができます(写真5)。この石垣の高さは、本丸下の段での調査結果によると、最大で15.6mにも達します。これは関ヶ原の戦い以前に積まれた石垣としては日本でも屈指の高さであり、その技術の高さがうかがえます。

こうして、宇喜多秀家のもとで岡山城は礎石建物(天守)・瓦・石垣を伴う近世城郭へと変貌を遂げたのです。しかし、慶長5(1600)年に勃発〈ぼっぱつ〉した関ヶ原の戦いにおいて西軍の主力であった宇喜多勢は壊滅〈かいめつ〉し、戦後、秀家は八丈島〈はちじょうじま〉へ流されました。ここに戦国大名・宇喜多氏は滅んだのです。

宇喜多秀家期の高石垣
写真5 宇喜多秀家期の高石垣(本丸本段南の高石垣)

(1)中井均 「織豊期城郭の画期―礎石建物・瓦・石垣の出現―」『中世城郭研究論集』1990 新人物往来社
(2)乗岡実 「第5章 調査成果の整理と展望 第1節 曲輪の構造と変遷について」『史跡保存整備事業 史跡岡山城跡本丸中の段発掘調査報告』1997 岡山市教育委員会
(3)乗岡実 「第5章 調査成果の整理と展望 第一節 岡山城本丸の変遷」『史跡保存整備事業 史跡岡山城跡本丸下の段発掘調査報告』2001 岡山市教育委員会

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