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下克上の時代

更新日:2019年9月25日更新

赤松家の衰退と浦上氏の台頭

 山名勢を播磨及び備前・美作から撤退させて3国を回復させた赤松政則〈まさのり〉の死後、明応5(1496)年に政則の婿養子の赤松義村〈よしむら〉が家督を相続します。この頃政則の重臣であった浦上則宗〈のりむね〉は主君の赤松氏を凌〈しの〉ぐ権力をもち、その後浦上氏はしだいに備前東部に勢力を拡大しました。明応6(1497)年には備前守護代の浦上宗助〈むねすけ〉が備前西部に勢力をもつ金川城(岡山市)城主の松田元藤〈もとふじ〉の指揮下にあった、富山城(岡山市)を攻め、文亀2(1502)年には矢津峠(岡山市)、文亀3(1503)年には旭川の牧石河原(岡山市)で浦上家臣の宇喜多能家〈よしいえ〉が松田勢と交戦しています。  

 義村は家内で権勢を振るう浦上氏を退けようと試みますが、当主であった浦上村宗〈むらむね〉は本拠の三石城(備前市)に籠城して赤松氏に反旗を翻〈ひるがえ〉します。これに対して、義村は永正16(1519)年に三石城を、その翌年に同じく義村を見限った美作守護代の中村則久〈のりひさ〉が居城する岩屋城(津山市)を攻撃しますが、家臣の宇喜多能家や村宗方に同調していた松田元陸〈もとみち〉の加勢もあり、いずれも撃退されます。

 優位に立った村宗は永正17(1520)年に義村を強制的に隠居させ、その子才松丸〈さえまつまる:後の赤松晴政〈はるまさ〉〉に家督を継がせて、自身は後見人となります。その翌年、村宗は足利亀王丸〈かめおうまる:後の第12代将軍足利義晴〈よしはる〉〉を奉じて再挙兵した義村を幽閉して殺害に及び、これにより赤松氏による守護大名としての領国支配は衰退し、浦上氏が実質的な支配権を握りました。

尼子氏の美作・備前侵攻と浦上氏の分裂

 享禄4(1531)年の大物〈だいもつ〉崩れ(兵庫県尼崎市)は、細川晴元〈はるもと〉・三好元長〈もとなが〉の連合軍が細川高国〈たかくに〉・浦上村宗の連合軍を破った合戦です。この合戦では高国・村宗方であった赤松政村〈まさむら:後の晴政〉の寝返りが勝敗を決することとなり、村宗はここで討死し、家督は長男政宗〈まさむね〉が相続しました。

 この頃から出雲の月山富田城(島根県安来市)城主の尼子経久〈あまごつねひさ〉の嫡孫の詮久〈あきひさ:後の晴久〈はるひさ〉〉が美作へたびたび侵攻して、美作国のほとんどを制圧しました。この過程で、三浦貞久〈さだひさ〉の高田城(真庭市)、齋藤実秀〈さねひで〉の小田草城(鏡野町)、中村則治〈のりはる〉の岩屋城(津山市)や広戸氏の矢櫃城(津山市)、下山氏の井内城(美作市)、美作国人衆が拠る医王山城(津山市)・神楽尾城(津山市)・細尾城(奈義町)などが攻め落とされ、支配下に置かれたと伝わっています。そして、天文21(1552)年には晴久は第13代将軍足利義輝〈よしてる〉から、因幡・伯耆・出雲・隠岐・備前・備中・美作・備後の山陽・山陰8か国の守護に任ぜられました。

 こうした軍事的・政治的な圧力を強めた晴久への対応を巡り、浦上氏は尼子氏に与した当主政宗とこれに対抗姿勢を示した弟宗景〈むねかげ〉の対立が生じて、浦上氏は完全に分裂しました。天文23(1554)年頃、天神山城(和気町)に居城した宗景は、尼子氏と対抗する国衆や毛利氏などの援助を受けて政宗を撃退し、永禄3(1560)年頃までに備前東部の支配を確立しました。

毛利氏の備中侵攻

 一方、応仁の乱以降の備中は守護家の細川氏の支配権が衰退し、猿掛城(矢掛町)の庄氏、幸山城(総社市)の石川氏、鶴首城(高梁市)の三村氏、楪〈ゆずりは〉城(新見市)の新見氏、塩城山城(新見市)の多治部氏などの諸勢力が台頭する状況となりました。このうち、天文2(1533)年頃、猿掛城城主の庄為資〈ためすけ〉は一族の植木秀長〈ひでなが〉とともに上野頼氏〈よりうじ〉を破って備中松山城(高梁市)を手に入れたと伝わっています。以後、庄氏は同城を本拠に備中最大の勢力に成長しました。

 しかし、まもなく尼子晴久の軍勢が備中中北部に進出して、国人衆はことごとく尼子氏の支配に属しました。そうしたなか、庄氏と三村氏の間に紛争が起こり、三村家親〈いえちか〉は安芸の毛利元就〈もとなり〉に援助を求めました。これが、毛利氏が備中に関わる契機となりました。これ以降、家親は備中をほぼ統一して本拠を鶴首城から備中松山城に移しました。

 永禄3(1560)年に尼子晴久が亡くなり、家督は義久が継ぎましたが、この頃には尼子氏の勢力後退がいよいよ加速しました。一方、毛利氏の備中制圧に順調に進捗したらしく、永禄5(1562)年に将軍義輝は毛利隆元を備中守護に任命しました。

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